小説家の男

男は一服しようと、今日初めて窓を開けた。冷房のせいでカラダは完全に乾き切っているようだった。食べ物を口にした覚えはないが、何にも勝るこの虚無感のせいで空腹を感じない。朝からずっと原稿を書いている。部屋の隅で、時計が青白く16:00の数字を浮かべるも、それが読めないほどに目は霞んでいた。


男は煙草を軽く噛んだ。外から、むわっと生ぬるい空気が入り込んでくる。火をつけながら窓のサッシを跨いだとき、足裏に面の抵抗が無く、驚いて見るとベランダが無い。男はそのまま落下した。それは、一瞬の出来事だった。古びたアパートの、誰も手入れをしていない庭に男は横たえた。ベランダは昨夜の嵐に溶けて無くなった。雑草が顔にチクチクして仰向けに体勢を変えると、傾き始めた太陽が男の全身をジリジリと照らした。地面すれすれのところから見上げると、三階の自分の部屋は随分高く思われた。ベージュのカーテンが外へなびくのを、ぼんやりと見た。湿った柔らかい土と、生え放題の草によって男は生きていた。どこかしらに痣くらい出来ているように思うが心配ないだろう、と、男は遠退く意識の中で祈るように考えた。


男は、何かを思い出そうとした。しかし、文字にしたことよりも心に留まっているはずの情感は、いつの間にか記憶を擦り抜けていた。こんなときになって、自分でも呆れてしまうが、しばらく会えずにいた家族の顔さえ思い出せない。気がつくと、男の呼吸はみるみる小さくなっていった。


子供の頃から、人の話すのを聞くのが好きで、おしゃべりが好きで、男はいつもいつも言葉が好きだった。言葉では足りない、と思ったことなんてあっただろうか。言葉を介したら、どんな人とも仲良くなれる気がした。言葉を信じたら、その人のことも信じられるのかは、分からない。けれど言葉には、いつも歓びが溢れていた。こうして男は今、曲がりなりにも作家である。しかし仕事に没頭するあまり、次第に感受性はパソコンで文字化可能なサイズに圧縮され、全ての経験は材料として書きかけの小説フォルダへ押し込まれるだけになっていった。


しばらくして、男の脳裏に「さようなら」が浮かんだ。今度は僕が溶けてなくなる番のように思えた。もう起き上がることは出来なかった。そうしている間にも、男の頭はカタカタとキーボードを打つのだった。そのとき、アパートの脇を車が通り、塀の向こうにスズメが飛び立っていった。目で追った先の夕焼けが、骨に染みるほど、赤かった。それは懐かしくもあり、今日初めて会う幸せのようでもあった。男の目から、涙がこぼれた。その涙は、体中の水分を絞り出した最後の一滴のように見えた。男にはもう、言葉を綴る必要がなかった。頭の中で書き始めた遺書みたいな物語も、全て消去した。沈みかけた夕陽を目に焼き付けると、男は心の場所に右手を当てて、そっと瞼を閉じた。