6月25日 女の子を出産しました。緊急の帝王切開でした。


予定日の二週間くらい前から胎児に若干の不整脈が見つかって、へその緒がどこか圧迫されているのか胎盤の働きか、血流量にもちょこちょこ波があり、定期検診に加え特別健診にて経過を診てました。


そんなある日の診察で、いつものようにNST(胎児モニター)をしてましたら、これはこれはオーバーな、全く繋がっていない折れ線グラフを叩き出してしまい、医者の「これ以上見過ごせない」という一言から、今日の今日でいきなりの帝王切開へという運びとなりました。
有無を言わさずとはこのことで、あれよあれよという間に段取りが進み夫も駆けつけ手術開始直後に麻酔で胸から下の感覚が無くなってからほんの10分足らずで私は我が子の産声を聞いたのでした。


酸素マスクの中で、「がんばれがんばれ」とずっとぶつぶつ言っていた。南無妙法蓮華経かなにかを唱えだしたように聞こえたかもしれない。執刀医に何度も「大丈夫ですか」と聞かれたけれど、私は満身創痍で子供にがんばれと言っていた。両腕はバンドで手術台に固定されているも、肩から指先まで震えが止まらず、ずっと恐怖の中にいた。助産師さんがオルゴールのような優しい音楽をかけてくれて、少しでも耳を傾けようものなら涙が出てくるほどだった。先生の「電メス!」という一言からついに始まった様子で、痛みはないけれどおなかの奥から、とにかくもの凄く引っ張り出されている感覚がしてしまう。次の「産まれます!」という大きな声のあと、本当に産まれた。本当に産まれたのだという感覚があった。脳に突き刺さるような元気な産声を聞いた。自分の胸から下が見えないようにされている緑色の布のカーテンの端から、助産師さんに抱きかかえられた我が子がひょっこり現れ、私の手の先に来た。身動きが取れないので、子供の濡れた手を指でちょこっと触れるので精一杯で、このほんの数秒の対面のすぐあと、私は薬で眠って一時間半、縫合などの処置を受け、起きたときには手術室から病室へ移されるところでした。担架で廊下を渡るとき、私を心配そうに覗き込む夫や母親の顔が見えた。


部屋では、鼻チューブの酸素と点滴と心拍計に繋がれていて、麻酔のせいか身体にほとんど力が入らない。声を出すのもままならず強烈に眠かった。夫は面会時間の最後の最後まで居た。夜まで何時間あったろうか、ウトウトしても、ふと目を開けると必ず夫が隣に居た。「起きたかい?」とか「よく頑張った」とか言うけれど、私は応えることが出来なかった。ただ、いよいよ帰るというときになって、涙を流して「ありがとう」と言うことができた。




その夜は長かった。


生まれたばかりの息子がただ存在しているだけで胸の底からいとしいというかかわいいというか、
なんといってよいのか見当もつかない気持ちであふれているのに、それとおなじだけ、こわいのだ。
息子の存在がこわいというのではなくて、その命というか存在が、あまりにもろく、あまりに頼りなくて、
なにもかもが奇跡のようなあやうさで成り立っている、そしてこれまで成り立ってきた、
ということへの感嘆というか、畏怖というか、そんはそんな、こわさだった。


母親というものは、これまで、言葉があるときもないときも、ただただひとりで孤独に、こういうことをくりかえしてきたのだ。
誰にも伝えられない痛みに耐え、自分も赤ちゃんも死んでしまうかもしれない状態のなかで赤ちゃんを生み、
そしてすべての母親に、こんなような最初の夜があったのだ。

そう思うと、悲しいのか苦しいのかよくわからない涙があふれて止まらなくなった。
戦時中に出産した母親はどうだったろう。爆弾が落ちてくる空のしたで、どんな気持ちで赤ちゃんに覆いかぶさっていただろう。
赤ちゃんとひきかえに死んでいかなくてはならなかった母親もいたはずだ。
その母親はどんな気持ちだったろう。どんな気持ちでいま自分が生んだばかりの赤ちゃんをみつめただろう。
誰にもいえず、ひとりきりでひっそりと赤ちゃんを生んだ母親は。
1年近くのあいだお腹で育てた赤ちゃんをついにみることも抱くこともできなかった母親は。


すべての「お母さん」というものが、いまのわたしの体と意識にやってきては去り、やってきては去るのをくりかえして、
その夜は朝まで泣きやむことができなかった。


― via「きみは赤ちゃん」川上未映子