違和感

世の男性は、まあみんな川上未映子が好きです。私も最近は未映子を中心に、旬のナツイチ無視で昔の書籍を乱読しています。未映子の名前を知ったのは、去年の1月かそこらでしたが、最近になって初めて著書を手に取った。古い順に読み出して、いよいよ残すは未映子の代表作「乳と卵」のみと相成ったわけです。(先ほどから未映子未映子と言いますが、とにかく春夫が川上未映子を “未映子” と呼ぶので悪戯に真似てみてるだけです、ファッキン)


本来は読後に書くべきを、「乳と卵」を前にして<読みました>よりも<読みます>を今、ここに書きたい訳がありました。これまで敬遠してきた未映子をコンプリートしてしまうのみならず、「乳と卵」を読むことはつまり違和感を飲むことでもあるのでした。さんざん斜視していたものを受け入れようとするのは悲壮な決意であって、これは、何かに折れるとき、しれっと居るのが歯痒いから誰かに見てて欲しい感に相似して、合格発表を一人で見に行けない感じにも似ている。


違和感とは、著書のタイトル「乳と卵」にあって、私は女性性の叙情的表現が苦手なのだった。同じ理由で、江國香織が書く男性性もまた苦手である。多分それらを、“女性” が語ることに対して何となく落ち着かない、の、では、と自覚している。例えば「人のセックスを笑うな」もそう。著者の山崎ナオコーラは好きだけれど、これはタイトルにぎょっとした。読んだ人は面白いって言ってたけど私は手に取らなかった。取れなかった。映画が流行ってた時期は、みんなのmixi日記にセックスセックスと言葉が踊ってそれはそれは目眩がしたものです。最近の現代小説には、とかく軽やかに性的表現がまるで塩こしょう宜しく混ぜ込んである。利かせ技でも、何でもない。自慰行為とセックスの対比の比喩も、使い古されたと言って良い。(ちなみに今読んでいる酒井順子の「都と京」てゆう文化エッセイ(都市論)にも出てきて、思わず苦笑)その、なんて言うか、そんなのなくても、物書きはもっと独自の観点から見える世界を描けばいいじゃないか。だから「乳と卵」が芥川賞を受賞したときは納得できなくて、食わず嫌い。だって太宰の喉から出る手が欲しても獲得できなかった芥川賞を、“乳” と “卵” がですよ。


そういえば中学生のころ山田詠美を読んだとき、高校生のころ図書室で何となく手にした江國香織を初めて読んだとき、そこに書かれた男女と自分と当時の恋人を重ねてぼろぼろ泣いた。ただそれって今思うと、十代の硝子の心にそれらがキーンと響くのであって、筆力の妙ではないんちゃうんか、と。もっぱら江國香織は恋愛小説家に従事ているけれど、彼女が唯一、恋愛でないテーマで書いた短編集「すいかの匂い」をつい先日読んでみたのでここに感想を、と思いましたが、残念ながら結局つまらないに終始しました。やはり言葉の綾とかは、特に無かったです。


情熱大陸の最後で、未映子が言っていた。「基本的にはやっぱり、まかり通ってることを一個一個確認して行きたいんです、常に。道徳だったり倫理だったり。難しいですけど、まかり通るからには まかり通るなりの理由があるし。言論には無理だけれど、小説には、可能性があると思ってます」この言葉に触発されるように、私はこれまで苦手と思っていたところから本物を探す旅を始めました。未映子の可愛い顔を見ていたら、良いなあと、思えてきて、あんな天真爛漫に憧れる節もあるしやってみようと。黙っていたことを言うように、読まなかった本を読むように。違和感も、本当はなんやのと確認してみるように。そんなで、だんだん未映子に影響されてる自分がいて、ぶっちゃけ、めちゃくちゃ好きになったのです未映子を。冒頭のファッキンは、好き過ぎて嫌い、の、ファッキン。未映子の最初の本「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」に、信じられないほど綾の原石が詰まっていることに気付いてしまったんです。これは日記が書籍化されたものだが不覚にも感銘。パンパンの感受性が未映子の中にあって、彼女を取り巻く世界の何某にあれこれと、ゆるふわ系じゃなくとっきんとっきんの大阪弁が言う。桜とか夜空とか冷蔵庫の残り野菜とかに、いちいち琴線が揺らがれて溢れる不器用で繊細な感性が、そのまま言葉の媒体だけでよくここまでと思うほど完璧な素直さで表現されていました。


未映子には、才能があります。もしかしたら本物は未映子で、ややもすれば「乳と卵」で完全にノックアウトされる可能性大。恐いですが、ただ、いらん違和感は一個一個なくしていきたいし、読みます。しかも手元に意図して「人のセックスを笑うな」のDVDがあるし、もしかしたらボコボコにやられるけど、観ます。何かに譲歩する訓練みたいでそれこそ違和感だけど、最近はこうして受容を拡張する日々です。