時間軸

夜行バスに乗っているあいだ一睡も出来ずに、iPodで同じ曲をリピートしながらずっと同じことを考えていました。家に帰ってから、お風呂のあとに荷物を整理したりして、早めの夕飯におなかを満たせば感傷的な気持ちも枕に溶けるその隙をみて眠りました。目が覚めたときにはもう、新学期の朝でした。東京に戻る日の最後に、夕暮れまで公園で話したときの手の虫さされがまだなんとなく治らなくて赤いというか、ときどき気のせいに痒い感じがして感慨深いのをひとりで受けとめています。痕が消えたら確実に夏の終わりを意味するのであってこれはひょっとすると一生残っても良いなあとか思ったり、思わなかったりします。


何色が好きとなると赤色ですが、じゃあ森羅万象で何が好きとなると私は夕涼みがとても好きです。季節は冬が好きですが、夏の終わりは特別で何とも言えなくて、好きです。そんなときベランダで風に当たりながら色んなことを考えます。時間は時間軸と言って一通の線的要素であり、だんだん夜が長くなると日ごとにテンポは遅くなって下降線を描く、そうやって、冬に向かって減速していく感じは何だか落ち着きます。


映画にあるような起承転結は山なりの線を思わせ、CMにあるような早いリズムは上昇線を思わせるけれど、そういえば昔「芸術は常に時間軸と直角だよ」という話を友達から聞いた覚えがある。例えば花の絵を描いたとして、それはいつまでも枯れることなくその瞬間の花で在り続ける、空の絵を描いたとしたらそれは絵の中でいつまでも晴れ渡り、雨が降ることはなく日が暮れることもない。つまり流れている時間の一瞬を、切り取っていると。時間に対して垂直ゆえに、絵を描いているときは時間を忘れて没頭できる、あるいは時間が短く感じるとも言っていた。ならばスローモーションは時間軸の拡大、早回しは時間軸の縮小か、そんなことを考えます。


春夫の新しい作品を観たことで最近思うようになったのは、映像作品というのはノイズ*の価値が大事な要点であるなあということです。ノイズ*とは不測の要素であって、言語などで具体的に表されないイメージがふんだんに含まる箇所です。演者の頬の筋肉や眉が1ミリ動くだけで表現される情感は様々にありますが、観る人に作り手の考えと同じように伝わったらそれが正解、というだけでないのが面白いところです。映画は総合芸術だから、イメージ・音・音楽・文字・記号を総じて表現されます。例えば涙がこぼれるシーンを、如何ようにも操作できるのに対して、小説では「涙がこぼれた」の箇条一個である故、説明的に修飾文が入る。「ある夫婦がいました」と、書くだけではそれ以上の情報を伝えられないけれど、映像であれば、二人は何歳くらいかな、寄り添っていれば、きっと仲がいいのかな、という感覚的なことさえ一瞬で伝えることが出来る。ある有名な映画理論の一説にはこうあります、『映画は、目に見えるもの、物語の直接的で具体的な要求から次第に解放され、ちょうど書き言葉と同じくらい柔軟で繊細な書くための手段となるだろう』と。ペンで紙に書き付けるのと同じくらい、表現としての映像が撮れたら、なんて気持ち良いだろうと思う。人の感受性が揺さぶられる瞬間とか、写実的な情景描写とか、鉤括弧にさえ成り得ない小さな感情のつぶやきとかもっと複雑な要素をどれだけ“書けるか”ということを日々空想している私にとっては、新鮮な感じを受けます。ただ、映像は時間の流れるペースを作り手が設定するのに対して、小説は読み手がページをめくるペースに委ねられるので、双方は同じ伝達手段であっても対局にあると言えます。


そう考えると、“会って話す” というのはそれらの中間にあるなあと思います。表情とか気配は受動的な要素で、相手や自分が投げる言葉と言葉を投げるタイミングというか「間」はお互いの呼吸で作る能動的な要素だなあと。だから、自分の不甲斐なさとか、その言い訳とか、誤解とか、知らないうちに作り上げていた自分だけの真理であるような理屈なんかが、相手の頭の中を通るとまた違う真理に素晴らしく様変わりしていくところなんかは衝撃的で、そういう魅力的なところに私は目を凝らします。このまま話し続けたらどこまでも打ち解けられる気がするのに、暗くなったらそろそろ帰らなくちゃと思うこと、必ず次の日の朝が来ること、季節が変わること、自分の手ではどうしようも出来ない軸の上に生きていることがときにとても苦しくて、面白いなあとも思うのです。