パンの感覚

高校の国語の先生がブログを読んでくれている。それは前から知っていたけれど、【今も時々読んでるよ】と、年賀状に書いてあり、とても嬉しくなった。出逢って八年経つあいだのやり取りで、私の手元には、MDとか論文とか手紙や葉書がいろいろある。つまり相手にも、きっと同じ数だけ同じようなものが私から贈られていったわけで、そう考えると気恥ずかしいような申しわけないような感じがちょっとする。私は大学生になって、先生は結婚して、かわいい女の子が産まれた。




表面では驚きながら、奥のところで「やっぱり」という感じがふくれあがる。
なにか出来事があって、それが人間の意志をこえて結びついていくとき、
出来事と出来事のあいだに、特殊なその同士にしか起こらない響き合いが生じる。
不自然なぐらいの偶然があとになって「この人しかいなかった」「やはりあのタイミングしかなかった」
ということになるのは、その出会いや、出来事が、縁の響きに包まれているからだ。
料理とか、贈り物とか、久しぶりの相手に手紙を書くというときも、そういうことがままあり、
それは作ろうとおもっていた料理と、食べたいと相手がおもっていたものが重なったり、
書こうとおもっている手紙のその相手から、扉をひらくような手紙が突然届いたり、ささやかなことである。
人と人がどれほど想い合い慈しみ合っていてもふたりはやはり他人で、完全に重なることはなく、
重なるどころか絶対に飛び越せない裂け目のこちらと向こう側にいて、それはじゅうじゅう分かっているのだが、
考えもつかないようなタイミングで出来事の共鳴が起こり、縁という不思議さにこころ打たれるとき、
この相手の存在してくれているおかげで、いま本当に人間をやっている、と信じることができる。
「やっぱり」というのは、相手のほうへ自分がパンのようにふくれあがる感覚のような気がする。
— via「熊にみえて熊じゃない」いしいしんじ