隠喩の具体案

ラジオにふつおた投稿。ラジオというか、エレ片ポッドキャストに読みかけの雑誌を送った。ブレーンを読んでたら、C1グランプリの募集テーマが【温泉に行きたくなるコピー】だったから、温泉好きのヤツイさんが書いたら良いのではと思い立って、お知らせのつもりで。


エッセイを書くひとはエッセイスト、コラムを書くひとはコラムニスト、だけどコラマーという妙な言い方もあるらしく、コラマーという肩書きで紹介されたひとの記事を発見して思わず二度見した。なんとなくだけど、コラムニストよりコラマーのほうが面白いコラムを書きそうな雰囲気がする。カジュアルで。ちなみにエッセイを「エッセー」と書くひとに共通するのはアルチュール・ランボーが好きだという点。


コピーライターという仕事は徹底して “部分” だから、広告で言うビジュアル&テキストのテキスト担当ということになる。最近あらゆる分野の分業制について考えていて、調べていたら、キャスティング業というキャスティング専門の職業があることを知った。そこまで細分化されたクリエイティブって何なんだろう。そこで思い出す、むかし鹿くんが言っていた言葉【結局映画を作るのは、集団の意志でなく最終的には一人の意志だ】について。【カメラはカメラに集中して、照明は照明のことだけ考えて、録音は重いマイクブームをフレームに入れないように振り回すことだけを考えていればいいようなチームワーク、スタッフのキャラ立ちっていうことでもないはずなんだ】という考え方に、無知ながら私は共感していて、それは諏訪敦彦にも通ずるところがあるからだと思う。(私は諏訪さんが好きなのだけど、先日、お会いできる機会を逃してしまった。諏訪さんが多摩美に来ていたのに講義に参加できなくて今でも心残り。)


要はどっちのほうがより面白いかということ。では、もし物書きという孤高の仕事にひとが集まったら、どういう構成ができるだろうか。落ちた鉛筆を拾ってあげる(隠喩)こと、落ちた消しゴムを拾ってあげる(隠喩)ことが、じゃあ具体的に何なのか、まだ考えているところ。




人生を共に生きる仲間や、家族と映画を作る必要がある。
監督の仕事、カメラマンの仕事、俳優の仕事などと役割で分業されたプロフェッショナルなシステムが必要な訳ではない。
必要なのは「私」と「あなた」で映画を作ること。「私」と「あなた」の関係を「世界」へ折り返し、生きることをリサーチすること。
その必要性において映画が作られるとき、映画は自己の世界を超えて、豊かで強靭なイメージを獲得するだろう。
決してナイーブで独りよがりなものではなく、クリスタルのような強さをたたえる一瞬があるのはそのためである。
映画はか弱きものの側にある。映画は我らのものである。
— via「映画は我らのもの」諏訪敦彦