野に咲く全知全能

いいとも増刊号に桂由美が出演していた。後ろで見ていたお母さんが、テレビに向かっていきなり「ブス!」と一喝した。びっくりして振り返ったら、「あれはデザイナーの顔じゃないわ」と言って鼻で笑った。こわい。


午後から学校へ。日曜は使用禁止であるはずのラボの機械を、普通に使っているひとが居たけど、納得。使用禁止なことのほうがおかしい。そうじゃなきゃ終わんない、とゆう恐怖をみんな感じている。教室で、イヤホンしながら原画のサイズを直した。サイズをミスっていた。スピッツを聴いていた。スピッツを聴いて、ふと男の子に生まれたかったような気がした。


ゆうべ予備校で、高二の女の子が泣いた。話している途中からどんどん涙が出てきて、デッサンが上手くいかないと言って眼鏡を掛けたまま泣いていた。頭をぽんぽんと撫でたら猫っ毛が冷たくてさらさらだった。一緒に描いてる高三よりよっぽど上手いのに、自分の絵にショックを受けているようだった。自分に求めるものが大きいひとは苦悩もそれ相応なのだと思った。私のクラスは男が多いから、特に年少の女の子はとくべつ目をかける必要がある。「手当て」という言葉は、まさしく「手を当てる」という接触の意味で、お腹が痛いとか頭が痛いときに一番効果があるのはお母さんの手なのだと、未映子が何かに書いていたような気がする。だからといって、誰かが誰かに何かを与えることができると思うのは間違いだ。誰もひとからは何も受け取りたくない。このあいだ、未映子の講演を一緒に聴いていた春夫が隣で咳をしてちょっとむせた。あのとき背中に手を当ててあげられなかったことをぼんやり考えた。




ふたりは忘れる 革命の気まぐれと きれはしを捨てながら それぞれの、こころもちを記録して
— via「発光地帯」川上未映子