二浪でフリーター的な者だったころ、半年間だけZ会で小論文を書いていました。なかなか点は伸びなかったけど、期日までに書いて出すと翌月に添削と解説編が届いた。そこに載る(好成績者の)模範解答は、感心するほどの代物が多かった。上手だった。文法的なことや考察という基本の話じゃなくて、アクロバティックな文章だった。重いより軽いほうが大人っぽいなと、今読んでも当時と同じことを感じた。


卒制の提出まであと五十五日。群像文学賞の締切まであと十日。今日は学校へ行かなかった。パソコンに向かいっぱなし。なのに一枚分も進まなかった。行ったり来たり。間に合わないやばいやばいとは、もはや思ってなくて、そこが良くない。群像に出せなければ、新潮(来年三月)があるじゃないかと斜に構え気味。同じく勘違い文学野郎の友達に、「あなたは間に合うの?」かどうか聞いてみるも、どうやら見送るみたい。「ていうか文學界(十二月)と文藝(来年三月)に出すチャンスもあるよ」と教えてくれた。それは知らなかったな、そっかそっか安心だねと思う反面ぞっとした。間口あり過ぎ。やっぱり敵は多いんだなということ。


直近の(第四十二回)新潮新人賞を読んでみた。小山田浩子の『工場』という作品。インタビュー記事には、たった三ヶ月でまとめ上げたと紹介されていた。私は書くのだ、書かなければ、と何かに駆り立てられて書けたのだそう。選考委員も絶賛していた。書くにあたっての取材や、身の回りの世界の観察眼が素晴らしかった。小山田さんは若いが立派な社会人である。転職したり労働した経験が反映されていた。私は学生のくせに学生モノを避けていて、今は作中主体を妻帯者の設定で書いてて行き詰まり中。自分の知っている世界がもっと広くあればいいのにと凄く思う。




問題意識の感じ方がきわめて真っ当であるということ。それが見事に、描かれる世界の構築に作用している。
この問題意識なくして、いくら奇妙な現代社会を描こうとしても書けまい。書いてもマッチしまい。
— via 文学は面白いのか(仮題)