悲しみが先行するひと

橋本の有隣堂に、早稲田文学のフリーペーパーが置いてあった。未映子が表紙だったから、何となくにこもらった。いっこ春夫にあげる。インタビューで未映子がこんなにはっきり「悲しい」と言うのを初めて読んで、衝撃を受けた。


自分の膝を自分の手で撫でたとき、触っている感じと触られている感じが両方する、とか、なんか、世界に対していろんな違和感を子どものころから持っていて、それは独特の感性で絶望で、不思議ちゃんがられる原因でもあって、そのまま大人になった未映子はそれこそ不思議さんとして今も苦しいところがある。例えばいじめられていたとか、誰にも理解されないとか、貧乏だったとか、ことの中身はそれぞれとしても単純に「悲しい」記憶はみんなにあって、私にもあって、たまたまそれを “書く” 動機としているのが未映子だと思っていた。でも、ここまで切り売りして本にしてもまだ悲しいなんて、経験は恐ろしいほど未映子を司って、ずっと救われないのかなとかわいそうに感じた。


むかし、鹿くんに未映子の『そらすこん』を読んでもらったことがある。ここに私の全共感があると言って紹介した。一緒にZINEをつくる計画をしていて、まずお互い好きな言葉の傾向を共有しようって始めて、穂村弘舞城王太郎ときて次、私からのおすすめ未映子。だけど、感想としては、未映子の激情が前に出過ぎて読みにくく、波瀾万丈でちょっと嘘くさかったとのこと。大変衝撃であった。よくよく聞くと、僕自身に語るほどの悲しみがなく、今まで平穏に過ごしてきたから理解できないのかもしれないということだった。経験として、同じくらい悲しみを持つひとしか信頼できない不安がある私としては本当に残念だった。語弊のある例えだが、お父さんが居ない子の気持ちはお父さんが居ない子にしかわからないし、お母さんが居ない子の気持ちはお母さんが居ない子にしかわからない、と思う。


それでも未映子のいいところは、作家として、与えられる側から与える側へ移行しつつあるところ。「私にとって表現は、苦しかったり悲しかったりするひとの苦しみや悲しみを半減するのが目的」とインタビューに答えていた。「そしてそれが成就するとすれば、そのときに書き手の生が肯定されうる可能性がある」と。言葉にできないものをどれだけ抱えているか、それが小説を書くということかもしれないよ、さあさあ、と、保坂和志田口ランディが言うように、未映子も書きたい若い世代に手解きはじめている。新潮新人賞の選考委員に抜擢された未映子はこう言った。「自分にとって世界にとって、こればっかりはまだ決着がついていないのだ、足掻くよりほかないのだと思うことだけを絶体絶命で書いてください」と。私はうれしかったです。