祈りのようなもの

ゆうべ春夫と散歩へでかけた。ぜんぶ任せて、ついていく感じ。まっすぐな道と、やま道を歩いて、文学の話など。ふたりでいるとき、そこに希望の糸口があるかの如く、いつも春夫に文学の話をしてしまう。でも、読むことと書くことだけが、すべてではない。とても楽しくて、良いことなのだけど、あいだにあるそれがすべてではない、と、思いつつ、この時間は私のすべてを左右するほど大切なものである。目に見えないものは幻覚であって、幻覚に違いはないが、誰かの理解がなければ、私の世界は昼も夜も明けないありさまである。


春夫は学校の課題で、脚本を執筆中のようで、苦しそうだけど、幸せそうな感じがした。物書きの世界にどっぷりなひとは、いい匂いがする。前置詞とか、物語の時系列の話をしていて、私は予備校のクセで途中「分かる?」と聞いてしまうが、春夫は「分かる」と言う。その瞬間はやっぱり、おっ、と思うし、逆に私が教わるときも思う。その顔を見ているだけで満足。言葉は必ずしも気持ちを反映しないが、それが絶望的であるぶん、同じだけ希望があって、だから、言葉を使って何かを伝えようとすることは、祈りのようなものである。