補填について

疲れてるから可愛い女の子に癒されたいとか、罪の意識があるから誰かに優しくしたいとか、傷ついてるから正直なひとと一緒に居たいとか、そういう弱さやエゴに手当てするためのコミュニケーションを、暗黙に了解できるほど寛容であるということは、それだけ大人ってことかもしれない。その一線を目の当たりにした。けど、違和感もなく「みんなそうでしょ」っていう卑しさが勝っていくさまを、あるあるって見過ごしそうになって、でもやっぱり腹立った。


許せん。許せんぞ。くそが。と思って内心、ずっと引き攣っていたのだけど、とうとう、というか、いつの間に許す側へ、遂には、許される側に自分が居た。最低だ。事情が有っても無くても逆らえないものはある。寛容じゃなくて、ただの麻痺だとしても、誰だってさみしい思いはしたくないはずでしょ。と言ってしまえる世界にただ、ちょっと、はっとした。


最近のこと。くる日もくる日も生徒の小論文を添削しているが、非常にハイペースで原稿をアゲてくる子がひとり。速筆にて、活気あり。ふと思ったが、これは編集者の仕事に似ている。先生然としていたけど、“先生” なのは生徒であって、私はただその背中を毎日プッシュしたりするのであった。読まれるとき、ひどく面映ゆい顔してくれるのだが、こちらこそ照れくさい。最近は寝ても覚めても、その子のための課題文を考えているし、ひいてはその子のことを考えている。“ごっこ” ではないが、まさしく【作家】と【最初の読者】と言える。そんなふうに考えて、だから私も、ひとの存在で自分の心の穴を補填してるんだなって、そう思った。