昨日、夜中の二時から『悪人』の下巻を読み出す。ベット脇の出窓に付けた小さいクリップライトの明かりで寝ながら読む。何と言えばいいか、とにかく苦しかった。殺人犯【清水祐一】がかわいそうでかわいそうで、何度も枕で涙を拭きつつ読んだ。途中、頭を冷やそうとベランダに出たりもした。お父さん【佳男】のシーンと、おばあちゃん【房枝】のシーンも胸が痛んだ。転機があってから、後半は一気にスピードを上げて話が動いていく。全員が順々に作中主体として描かれるとき、【清水祐一】以外の人間に潜む本物の悪意がどんどん明白になり、読んでいくごとに「本当の悪はお前じゃないか」という気持ちが湧いて悔しかった。誰かを苦しめていることに気づかない“悪人”も、誰にも気づかれずに苦しむ“悪人”も救いようがなかったし、救われないままに終わった。明け方の六時ごろ、読了。


人を殺すにせよ、人を好きになるにせよ、何の拍子でそうなるかなんて分からない。ふちギリギリまで満たされたコップに最後の一滴が加わって水が溢れても、その一滴を「原因」と言うことはではない。【清水祐一】の内証に、せめて【光代】は触れて欲しかった。勘付くことと触れることは違う。“分かってあげる” のと、“救い出してあげる” のとでは大きく違う。吉田修一の女性観は本当に独特で鋭くて、描かれている女の野暮ったさとかヘボい部分が、私自身と妙に重なる。ヒロインなら、それはそれで優艶な女性を描くこともあるけど、でも彼の作品は、ほんの少し冷たい男を主人公とする場合が多いので、その目線で見る女は程度の差こそあれやはり野暮。自分に気がないところや冷たいところも含めてあなたが好きとか言ってしまいそう。『グリンピース』や、特に『突風』は読んでて辛かった。


狭いベランダに出て、部屋の窓に背中を付けてそこにしゃがむと、眼前五十センチくらいに格子の柵がある。読みかけの『悪人』片手に、そのベランダの柵越しに外を見るのではなく格子のひし形をじっと見てたら、ここでこうして同じ格好でひし形を数えたりしながら嬉しそうに電話したときのこと思い出して余計に涙が出てきた。大事に思ってると言われたのはそのときだった気がする。ちゃんと言葉にしやんとな、と。でもそれを、私だけ覚えてるのかもしれない。


だから今日は朝から疲れ切っており、お昼に学校へ行くも三・四限の講義はほとんど頭に入らず。ただ、思い入れのある本を遂に読んだという達成感が少しあるせいか気分は悪くない。去年の十一月に文藝春秋の説明会へ行って涌井さんの話を聞いて以来ずっとあった出版への羨望とか、ようやくここで蓋することができるというか、蓋しないといけないというか、成仏するというかなんなんでしょう。一旦一区切りというか。それでも、今はぜんぜん違う業種で就活してる自分に対してぞっとすることがあります。明日は面接が二つ。これから準備して、今日は早めに寝る。