情念引力

確実に結果が出ているところで言うと。二社、落ちました。いま生きている一つは、三次に進めるかの選考結果待ちで、あとの会社はエントリーだったり書類の段階。課題作文が審査されているところです。書類→筆記→面接の流れが主で、それが特別不利とも有利とも思わないですが、第一志望に関しては直接話したい気持ちがあるから、やっぱり会う機会は大事。今のところ打診した数は7社で、そのうちの数社は夏ごろまで持ち越しになっていくんじゃないかと思う。単に、〆切や試験日から結果通知までの期日が間延びしている。あとは、これから提出するところが幾つかあるくらい。ただ、大方の採決は三月いっぱいで終わってしまうから結果のたびに一喜一憂する気持ちの余裕もなくて、本当にあっという間なのだと思う。学校が始まる前に内定が欲しかったけれど、それは時期的にも力量的にも、とても難しいことが分かった。最近ひとりごとで多いのは「これから先どうなっていくの」とか。


一つしか選ばないということは、考え方によっては暴力的でもある。業界の選択や、今のことに限らず、それは何に於いても。私は何でも捨ててしまう癖があって、物じゃなくて、何でもそうだけど「いらない」と思ってからが早い、というか。あのときあれを捨てたから今ここにこれがある、みたいなことはときどき考えるけれど、振り返らなければ悲しくないということは知っている。その反動か、取捨選択の経過を辿って残したものに抱く特別な感情はきっと防衛本能なんだろう。それが本物でなかった場合、自分がどれだけ傷つくかは想像もつかない。


あれこれ「運命」と呼ぶ人がいるけれど、友人の受け売りで言えばそれは「シャルル・フーリエの情念引力」と呼ぶらしい。人は引き付け合う性質があって、その質量(ポテンシャルとか、例えばそういうもの)が大きいほどその引力も強いと言う。「引き付ける」の「attract」は人にも、物にも、事にも使われる。人(交友関係)・物(所有物)・事(知識や経験)を取り込むことで誰でも引力が増してゆき、本当に必要なものは無くなったりしない。私はこの話が好きなんだ。


実は先日、携帯電話が壊れてしまい、みんなの連絡先が分かりません。なのに、大事な番号のメモ書きが出てきたり、連絡したいと思ったタイミングでバッタリ遭遇したり、逆に相手からメールや着信がきた。いざと思えばいくらでも通じるのだった。そんなことより一刻も早い小説の完成を急ぐ気になって、それは何故かというと、これも連絡の手段にするつもりでいるからだ。伝えたいことを伝える為だけど、果たして待ってくれるかどうか、そこだけ少し不安でもある。情念引力は良くも悪くも、順番やタイミングさえコントロールするらしい。それだから、荷物で両手が塞がっている日にたまたまシャッフルを飛ばさず聴いた最初の音楽が今まさに自分の心情を代弁するような歌だったりする。例えばそういうことに「あっ」と思えたら、大事なものは無くなったりしない。