太陽が燃えている

オール電化のおうちに産まれた子どもが初めて火を見るのっていつだろう。「いつだと思う?」ってお母さんに聞いたら「そんなのどうでもいいから夕飯よろしく」と言われたので代わりに献立を考える。お母さんは資格の試験が迫っているとかで、居間のテーブルにテキストを広げて勉強していた。専業主婦だったころと、仕事するようになってからのお母さんはまるで別人だ。「コーヒー飲む?」って聞いたら「よろしく」と言うのでお湯を沸かす。火は、見ていてぜんぜん飽きない。ガスが良いか電気が良いか、私はガスかなとおもう。


前に、ひとり暮らしの子のおうちでごはんをつくってあげるとき、そのキッチンはIHだったから、平らな白い円盤があるだけで少し嘘くさい感じがしていた。お鍋をシュッと振るったり、コンロから離すたびにセンサーが感知して、すぐ熱が止まったり電源が落ちた。料理というよりデジタルな何かをしているという感じだった。料理は、お母さんの気持ちで作る。当然だがみんなお母さんを見てそのやり方を覚えるから感覚が連動していると思う。もしかして私もここで暮らすことになるかしらなどと無駄に空想したが、“生活”がイメージできず違和感のままに親子丼はできあがった。


先月、ある小学校へ図工を教えに行ったときのこと。泡のハンドソープしか使ったことない子がいて、固形の石鹸からは上手に泡立てることができなかった。手の大きさは関係なくて、手の形が大事なのよ、たまごを両手でつつんでなでなでするようにしてごらん、ってお母さんから教わってないっていうことだった。


時代の変化は良いとして、ただその“考え方”が世の中から要らなくなる、というか知識が要らないというか、そういうこともあるんだなということが妙。だって、火って生きるってことでしょ?火を知らないっていうことは、火だけを知らないっていうことにはならないよ、と、ぶつぶつ言う私。じゃあ一歳の誕生日ケーキにロウソクたててあげるのはどう?というのが最終的なお母さんの見解であった。ああそっか〜、と言いつつそれも妙。This is 火、というより太陽は光ってるんじゃなくて燃えてるんだよっていうスケールで教えてあげたい気がする。