小説の解体

最近、吉田修一を良いなと思ってずっと読んでいる。普通なら二文になるところを一文にまとめるのが上手い、気がする。読みながら「うま〜...」と唸ってしまう箇所あり。細部(前置詞)まで配慮して文字を選んでいるからフットワークが軽くて、著者の賢さを想わせる。頭のいい男特有の平衡感覚から来るクールなユーモアと、何か始まりそうで始まらない終わり方がおしゃれ。借りて読んだのに、結局買ってしまうのが吉田修一


凄くベーシックな小説の形にも、もちろん起承転結のような流れがある中で、ダイアグラム化すると文学賞作品は特にその「転」の位置(横軸)と高さ(縦軸)が似ている。面白くて読みやすい、定番の体裁。未映子の『乳と卵』の場合は、その高さが平均より高い。頭に生卵を叩き付けるシーン。吉田修一の『パレード』の場合はその「転」の入射角が鋭い。文庫版『パレード』で言うと、ラスト14頁目に「転」が来て、たんたんと時系を辿ったところへ急に話の山場が来る。「自分でも、そのあとどのように動いたのか覚えていない」という書き出しのシーン。「転」の創意工夫には、作家の性格が現れて、腕っぷしを垣間見ることができる。力技のひともいれば、凄く繊細に書き出して高みに持ってくひともいる。美人の女性作家に、豪快な文体で展開するひとがいれば、男性作家にテコの原理で飛ばすひともいて面白い。もし章にもそれぞれ重量があるならば、きっといちばん重たいんだと思う。


つまり、どんな小説にも「転」に行く前段階で必ず一瞬「ミュート」になる部分があって、無音状態というか時が止まるような場面がある。それは大きな掴みのようでもあって、例えば作中主体が瞑想する或は何か本音を言い表す箇所であって、書き手と読み手の隔てが無くなる。まるで自分自身がそう思っているかのような気持ちになってしまう。核心部でもあるし、「転」への大事な大事な土台。故に、著者の伝えたいことが書かれている傾向が強い。「転」が読ませどころなら、「ミュート」は感じさせどころ、無意識に考えさせどころ。ただ谷川俊太郎いわく、作品にメッセージ性を持たせることはタブーであって、自身に関しては「ある美しいひとかたまりの日本語をそこに存在させたいだけ」という言い方をしている。要するにこれが詩と小説の大きな違いなのだと思う。先頃の第142回芥川賞は【該当作なし】でしたが、こういう状況の選評で候補作に対し、よくあるのが「結局なにが言いたいのか分からなかった」という書評。何か強烈なメッセージならば、当然散文の方が心に響くことがあるのに、わざわざフィクションの街や人物を起てて一見遠回りしながらも書かれる小説たるものは、微力にも何かを示唆する媒体である必要があるということ。むしろ小説という方法でしか伝わらないことが世の中にはたくさんあり、またその表現(ことば)が無限にあるということなのだと思う。山なりの形をどう描き、差し色をどこに挟み込み、総合して読後にふっともたらすものをどうコントロールするかってことが小説を考えるってことなのかもしれない。


いま私は「転」に持ってくる何か出来事の名案が降ってくるのを待っているところで、手元にある全然面白くない低い山をいくつかボツにした。書けるところから書いていて、完成の目処は現在全くないのだが、最短の目標としては10月中というのがあって、もし本当に完成できたらあるひとに読んでもらおうと思っているところ。