空中分解

近所のスーパーに質素な本屋が入っていて、規模こそ小さいものの、そこはとても画期的な陳列システムをしている。普通の本屋は、文庫本を出版社別の棚に分けて作家名または作家番号順に並べているけれど、ここは各社ごちゃ混ぜに、徹底した作家50音順なのだ。あーいーうーーと間延びした仕切りの端から順々に相田みつを赤川次郎芥川龍之介... と読み上げる。自然と名前を覚えるように、私は作家の出欠をとって遊んでいた。大学へ行かず、一日を無駄にした。


進路相談があって、教授を指名できるようになっていて、私は高橋先生にお願いして卒業後の進路について話した。話してしまったことをとても後悔している。相談日程と申し込みの用紙が掲示され、何の抗力も働かせず無意識に従い、早めの日取りで予約し、呼ばれ、普段は入ることの出来ない研究室の教授のブースにやや緊張し、聞かれたことに全部答えた。窓からイチョウの葉がとても綺麗に見えるのを「色がとても良いですね、どうですか」と言われ、それについても少し答えて、予定の30分はあっという間に終わった。


そういえば4年前、浪人のとき上野毛キャンパスの“進路相談会”で初めてお会いして、デッサンを講評してもらったときと同じように高橋先生はピアスを見ていた。ピアスを見ているわけじゃないけど、凄く近い距離で接するのだけど、相手の目を捉えて話すのではなく、先生はほんの少し横の位置に視線を置いているような感じがする。間近で黒目を観察すると分かる。あのときも、私は緊張していた。


来年もサーフェスを履修するつもりである手前、高橋先生以外は指名できないけれど、だからといってその先の将来について相談する必要はあっただろうか。何も関係がない。フォローはテキスタイルのことだけで良いはずなのに、大事なことを言ってしまった気がした。何故だか急に大学のアカデミックなくだらなさが際立って見えて、眉間にシワが寄る。考えてしまう。何の為の何ということをいちいち。


「自分が本当に本当に大切に想っていることは、絶対に、人に口外してはいけないのだよ」中学のときに、社会の大沢先生が言ったことを最近よく思い出す。大沢先生はベテランの先生で聡明で、私は大好きだった。大沢先生は国語の先生と仲が良かったから、一緒に作文を読んでくれたり褒めてくれたり、応援してくれた。「こういう気持ち、ああいう気持ちを表現したいけど上手く書けない」と、もがいていたときも、無理せずゆっくり書いていけば良いと言ってくれた。自分の人生において、この時期の先生方が一番影響をもたらしてくれたというか、本当にお世話になった。これからは、ちゃんと言葉にして、変に内相性が強いのを少しずつ開いて、それを出来る限り綺麗と思える日本語で少しずつ書いていきますから、だから、私の未来に希望を持っていてはくれませんか、それをまた口に出してみてはくれませんか、古い先生や古い友達のことを思い出しては甘えの気持ちが出てきて、何も迷っている訳ではないけれど、そうしたらちゃんと覚悟して進めるような気がして、誰に向かってなのかよく分からぬ “ごめんなさい” の気持ちが込み上げてくる。