引っ越し先は決まってないけど、引っ越すこと自体はもう決まったことなのらしい。年内に、とはいかないまでも良い家があればすぐに、とのこと。今の家は六年しか住んでいないから思い入れとかはなく、むしろまだ慣れていない気がする。今のこの家に引っ越しすると聞いたのは何もかも決まってから突然で、「来週引っ越すから荷造りしておきなさいね」という感じでいつの間に来た。家の脇にはコンクリの細くて急で長い階段があるのだけど、その先からどんな景色が見えて、どんな風が吹いていてどうで、こうで、ということを知らない。のぼってみたことが無い。


取捨選択のふるいに何度もかけているうち、いつの間にいろんなものが失くなる。“捨てる” ということが苦じゃなくなるとは別で、むしろそれを振り返ることをしなくなるから、だからある人は強くなれても、ある人はどんどん弱ってしまうのだと思う。事情があっても無くても、逆らえない事象というものはある。寛容とは違って、単に麻痺で、誰だってさみしい思いはしたくないはずだ。


何だか要らないものが多くて、つまらないことで頭がいっぱいで、もっと身軽になりたいと思って髪を思いっきり短くすることを考えて辞めて、十一月。サーフェスは芸祭前に講評会があって、明日からまた新しい課題が始まる。織は今日で講評を終えた。それぞれ八週・六週のスパンで制作して、その過程と完成後に色々考えることはあれど、「次」というものが在るのであって。二年生のときはもう少し坂道ダッシュみたいな課題が多くて尻を叩かれる感じで、その頂上ですぐさま次の坂道までの地図が渡されて「明日の一時スタートな!」みたいな。結構スポーツ的に作品を作っていた。今は、ひとつひとつの制作を重んじる、向き合う、そういう時間も与えられている気がする。それでも繰り返す、いろんなことがゆっくり。


だから純粋な “今” っていうのが分からない。「今、今だよ今」って言ってもその「今」って言った今は1秒前の今。そのせいで大事なものが全然守れず、「あっ」て思った瞬間の感情が大切なのに、言葉にならないものはいつでも嘘と隣り合わせだと思う。嘘をついていなくても、言わない、のだから嘘と一緒であるにも関わらず、全てを闇に葬ってしまうのがこわくてたまらない。このまえ、三日月のすぐ下に星がひとつ光っていて、それが微笑んだ口と口元のホクロみたいですごく女っぽい空だった夜に、私は誰に電話をしても良いのかが分からなくて、携帯を持ったまま泣いてた。