おしまい

前田司郎の『逆に14歳』はかなりの問題作と思うのですが、もし誰か読んだ人がいたらぜひ感想を聞かせて下さい。(新潮10月号に載ってます)


本当は立ち読みで全クリしようと思っていたのだけど、何回か通って読んでいるうちに価値を見出して、これはきっと良い資料だなという感じに嬉しくなって購入。冒頭から飛ばし気味というか、見たこと無い文体が気に入った。ただ、最後のほうで流れが一気に変わって核心が露になるところのお話の内容が理解できなくて、いや、理解できなくもないのだけど 何でそっち行くの!そっち!?という感じに喰らってしまい、動揺というか、結末には期待していただけに痛恨というか。別にグロテスクとかじゃないけれど、道で鳩の死骸を見たくらいの大きなショックをここ2週間ほどずるずる引きずっております。


さて。前田司郎という男は劇作家なのらしい。以前読んだ誰かの小説も、著者を調べてみたら実は劇作家、ということが何度かあって、どうやら劇作家というのは面白い文を書く。ウィキペディア曰く、前田司郎は小学生の頃から小説らしきものを書いていたのだが、途中で読み直す度に続きが書けなくなって辞めてしまうというのを繰り返していたらしい。学校がつまらなくなり、文学的なものに飢えていた中学生の頃 演劇に興味を持ち始め、読み返さずに書いてしまう戯曲の手法を小説に持ち込んだところ、最後まで書けずにいた小説がちゃんと最後まで書けるようになったのだという。興味深い。


継続や完成というのは作業的な集中力じゃなく、同じことを “想い” 続けることの難儀と思う。未映子の『ヘヴン』でコジマは泣きながら言う。「わたしが、お母さんをぜったいに許せないのは/お父さんを捨てたことでも、新しい人のところへ行って何もかもをなかったことにしたことでもなくて/最後まで/最後まで、可哀想だって思い続けなかったことよ」と。お父さんが可哀想だったから結婚したと言うお母さんに対してコジマが思うのは、何でそう思い続けないのかという怒り。私も自分の両親には同じように思うところがあって、負の方向は簡単だと言われるように、バタバタ駆け下りて行くというか崩れて行くものはトラウマである。「ください」と言って貰えるのが愛情とは思ってない。ただ、途中で終わるのが恐くて始められないことはあると思う。最後の瞬間は大事だ。ドアを閉めるときは静かに、おやすみなさいは丁寧に、末尾は慎重に。だから、終わってしまう感じが淋しくないように、最後まで気を配って作られていたところなんかも泣かせて終わる小説のほうが好きだな。