続きが気になって気になって、バイトの帰りに下巻を買って今夜読み切ろうと思っていたのに、帰路に一件だけある本屋には取り扱いがなかった。店員に「文庫版じゃなくて単行本ならある」と言われ、上巻の続き部分から立ち読みしようかと考えたが、十時閉店の十五分前だったので諦めた。こんなことなら行きがけにスーパーの本屋で買えば良かった。


おとといから吉田修一の『悪人』を読んでおり、本日、上巻を読了。吉田修一のこれを読むために今までの基礎編があったと言って良いほど楽しみにしていた。吉田修一は、今年の二月に読んだ『パーク・ライフ』(芥川賞)を皮切りに、先月で七冊読了。そろそろ行こかー、ということで『悪人』を手に取る。なぜ『悪人』なのかと言うと、私の好きな涌井さん(Number編集者)が当小説の書評をしており、その結びに「もう一度言おう。これは傑作だ」と絶賛したので、その影響。初見の作家の場合、文章のリズムや展開のクセが全く見えないので注意が散漫してしまい、読みづらいことがある。『悪人』を “良い状態” で読むために、その他から入り、読み慣らす必要があったというわけです。


始めは単純に、吉田修一の長編を読むぞー、という目標で基礎編をやってたけれど、読めば読むほど彼の書く技術に興味が湧いたのでその分析へ目標を移行。私が一番知りたかったのは、吉田修一が長編を書く場合のモチベーションとその質量。質量とは文字量ではなく仕事の密度というかそういうもの。分からないけど、あくまで考察だけど、それぞれ作家の個人差もあるだろうけど、中編/長編と、書き下ろし/別媒体への寄稿の寄せ集め、では、本として出来上がりが全く違う。優劣ではなく、成り方が。果たして彼の長編の場合はどうだろうって。長編となると当然群像劇なので、その相関はどう処理されてるかとか、どこから書き始めたかとか、ここ迷ったんじゃないかなとか、ここ凄く練ったんじゃないかなとか、ここ気に入ってるだろうなとか、一番言いたいのは何処かとかが、どう現れてくるか。読みながら想像するのは登場人物の顔じゃなくて吉田修一が仕事してるときの顔。まだ下巻があるのでアレですが、現段階で既にもの凄く勉強になっている。嗚呼(感嘆)


ちなみに涌井さんだが、涌井さんの凄いところは、書評で「これは◯◯賞を獲りそうだ」という予測が立つこと。新人賞含め、何十とある文学賞の傾向を把握しているということだし、つまり読み込んでいるということ。またその、読み方が面白い。【矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴』『夏のエンジン』を読み、スパイスの効いた本場のインドカレーを食べた気分になって、 続けざま、締めにハーゲンダッツのラムレーズンのようにおいしい江國香織のエッセイ『いくつもの週末』と、短編『つめたい夜に』を読んだ】とか言うひとである。確かに納得の食べ合わせ(読み合わせ)というか、とにかく涌井さんのレビューは面白いのである。涌井さんは一日に複数冊読めるひとで、学生時代から本当に信じられんくらいの読書量らしかった。ある出版のひとに「レビュー力が大切」と言われたが、レビュー力とはどのように鍛わるのでしょうか。面白い人のレビューは、本当に本当に面白いのです。