ご挨拶という硬い感じじゃなくて、まるで前から知っているように優しく、全てを受け入れるひとでした。無事に帰省した。お米や野菜を自分で育て、自然の摂理を重んじる。先祖や子孫についても同じこと。長男が連れてきた是即ちお嫁さん。「大賛成」と言ってくれた。生きているのではなく生かされているのだという考え方が、今の私には真似できなくて、小さい自分を申し訳なく思った。




来年度。彼が異動するらしく、新天地で館長になるのだそう。もし決まったら、引っ越すか単身赴任か。私も今月か四月か異動があるかもしれず、その如何によっては一緒になれたり、なれなかったり。とかそういうごく普通の幸せを、ぽわぽわ考えたり、ふたりで番う雑誌や住まう雑誌を読む昨今。みんな買っているこれ、自分らも買ったりして不本意ながら案外たのしく、そういう瞬間に、たったひとりの「個だ、個だ」とか言っている歳のころの自分を少しずつ忘れていく。





よく眠っている人にささやかな声で話しかけてそして起こすのは、なにか宝箱をあけるような心もちがするものだが、
その目ざめの瞬間、相手のなかで、夢と自分が溶けあわされるのを感じるかもしれない。


それもまた「消え去り」のひとつとして流れていくが、自分が誰かにとってブレイクファストになるというのは、
人間としてほんとうに、いまそこにいるという感じがすることにちがいない。
― via「熊にみえて熊じゃない」いしいしんじ