太宰のお墓参りをした。命日であった。


墓石に刻まれた【太宰治】のくぼみに、さくらんぼがぎゅうぎゅうに押し込められていて、お酒や煙草も供えてあって粋な雰囲気がした。
連れは、「ここに眠っていると思うとぐっと来る」と言った。自分の好きな小説家が、例えばもし未映子が死んだら、私はお墓に手を合わせたりするだろうかと考えて、是非しよう、と思った。


「行ったら会うかも」と言われていた通り、禅林寺で連れの仕事のかたに遭遇した。「彼女と参りました」と紹介され、変な気がし、あとから急に思い立って「連れです、くらいでいいよ」と、ようやく帰るころそっと提案した。それから妙に「連れ」という言葉が気に入り出して、これから使っていこうと思ったのだ。




一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。
今日一日を喜び、努め、人には優しくして暮したい。青空もこの頃はばかに綺麗だ。舟を浮べたいほど綺麗だ。
さざんかの花びらは桜貝。音たてて散っている。こんなに見事な花びらだったかと、今年はじめて驚いている。
何もかも、なつかしいのだ。煙草一本吸うのにも、泣いてみたいくらいの感謝の念で吸っている。
まさか、本当には泣かない。思わず微笑しているというほどの意味である。
— via「新郎」太宰治